開山上人

開山上人 俊乗房重源上人について

稱念寺を開山されたのは俊乗房重源上人であります。

治承4年(1180年)、平重衡らによる南都焼討にて、東大寺の大部分が焼失してしまいました。焼失したのは東大寺の建物のみならず、多くの仏像、経典、仏具にも及び、御本尊である盧舎那仏像も焼損し、手や頭部が焼け落ちる程の甚大な罹災となりました。

後白河法皇は再建の意志を示され、勧進聖(諸方を勧進して歩く僧)たちに東大寺復興の協力を求めました。
そして浄土宗を開かれた法然上人の推挙により、再建の責任者として「東大寺造営大勧進職」に任命されたのが、重源上人であります。当時60歳でありました。

重源上人は、何度も留学した中国の宋で習得した様々な建築技術を活かし、東大寺再建の為に、当稱念寺を基盤として全国行脚し、建築の指揮を執られました。また、材木事情、土木技術にも精通されていた事もあり、自ら巨木を求め、山奥の道を切り開き川に堰を設けるなど工夫をこらして、山口県の佐波川上流から奈良まで木材を運びだしたそうです。

後に、当時山林が荒廃し木材が貴重であった中国地方に、材木の一部を送るなど優しい人柄も伺えます。

様々な困難を乗り越え、東大寺は再建され、その功績より重源上人は「大和尚」の称号を贈られています。重源上人の並々ならぬ尽力により、無事に建久6年(1195)東大寺は大仏殿落慶を迎えました。

東大寺再建中に、重源上人は自身を「南無阿弥陀佛」と号し、念佛信者として法然上人に深く帰依されております。

開山上人 俊乗房重源上人について